2009年06月05日
山の想い出(山伏)
1981年に会社の大先輩の「退職記念山行」で仙丈ヶ岳と甲斐駒ヶ岳に登る事となったのをきっかけに山の道具を一通り揃えた賢パパでしたがまだまだ自らが計画を立ててどこかの山に出掛けようという気にはなりませんでした。
それは経験不足と登山口までの足の確保の問題が大きかったのだと思います。
それでも賢パパが山の道具を揃えた事を知った先輩達が山に行く時は賢パパにも誘いの声を掛けてくれるようになりました。
退職記念山行から帰って一週間空けた次の週には安倍川源流部、いわゆる「安倍奧」の最高峰である「山伏」への山行に誘われました。
特に用事もなかったので一も二もなくOKの返事をして4人パーティで出掛けました。
記録が残っていないので記憶に頼るしかありませんが恐らくはバスを使って登山口の近くまで行き、そこから山伏に登り、後は稜線を辿って大谷嶺、八紘嶺を経て梅ヶ島温泉に下ったものと思われます。


当時はこの写真にもあるように「山伏」を「山伏岳」と呼んでいたように記憶していますが地元の人は昔から岳を省略して「やんぶし」と呼んでいたとかで最近登った時の山頂標はこんな風になっていました。

岳を付ける事に反発する人の仕業だと思われます。
記録を見ると山伏にはこの後2007年に賢ママと一緒に登るまで登った事がないとされていますが12月に「雪洞訓練」を行うために登った記憶がありますから記録がないだけで確かにこの年の12月にもう一度登っているはずです。
ここに記載した写真を見ると11月にしては雪が多いような気もするのでこの写真は雪洞訓練に行った時のものかも知れません。
その時は訓練をするには雪がなくて小屋泊まりを余儀なくされた事を憶えています。
下山した梅ヶ島温泉は「静岡の奥座敷」と呼ばれて市民から親しまれていますが当時の梅ヶ島公衆浴場は温泉の旅館街から安倍川を隔てた反対側の岸にあって丸太組みの小屋の中に湯船があるだけの素朴なものでした。
男湯と女湯の仕切りも丸太組みの壁でしたから丸太の隙間から覗けてしまうのでした。
そんな事を知ってか知らずか若い女性は入っていなかったように記憶していますねぇ。
閑話休題。
そんなわけでこの年は11月から12月にかけてだけで仙丈、甲斐駒(テン泊)、山伏(日帰り縦走)山伏(小屋泊)とだんだん本格的な山行をするようになって来ました。
そしてこの本格化が翌年の忘れられない思い出の山行へとつながって行くのです。
それは経験不足と登山口までの足の確保の問題が大きかったのだと思います。
それでも賢パパが山の道具を揃えた事を知った先輩達が山に行く時は賢パパにも誘いの声を掛けてくれるようになりました。
退職記念山行から帰って一週間空けた次の週には安倍川源流部、いわゆる「安倍奧」の最高峰である「山伏」への山行に誘われました。
特に用事もなかったので一も二もなくOKの返事をして4人パーティで出掛けました。
記録が残っていないので記憶に頼るしかありませんが恐らくはバスを使って登山口の近くまで行き、そこから山伏に登り、後は稜線を辿って大谷嶺、八紘嶺を経て梅ヶ島温泉に下ったものと思われます。


当時はこの写真にもあるように「山伏」を「山伏岳」と呼んでいたように記憶していますが地元の人は昔から岳を省略して「やんぶし」と呼んでいたとかで最近登った時の山頂標はこんな風になっていました。

岳を付ける事に反発する人の仕業だと思われます。
記録を見ると山伏にはこの後2007年に賢ママと一緒に登るまで登った事がないとされていますが12月に「雪洞訓練」を行うために登った記憶がありますから記録がないだけで確かにこの年の12月にもう一度登っているはずです。
ここに記載した写真を見ると11月にしては雪が多いような気もするのでこの写真は雪洞訓練に行った時のものかも知れません。
その時は訓練をするには雪がなくて小屋泊まりを余儀なくされた事を憶えています。
下山した梅ヶ島温泉は「静岡の奥座敷」と呼ばれて市民から親しまれていますが当時の梅ヶ島公衆浴場は温泉の旅館街から安倍川を隔てた反対側の岸にあって丸太組みの小屋の中に湯船があるだけの素朴なものでした。
男湯と女湯の仕切りも丸太組みの壁でしたから丸太の隙間から覗けてしまうのでした。
そんな事を知ってか知らずか若い女性は入っていなかったように記憶していますねぇ。
閑話休題。
そんなわけでこの年は11月から12月にかけてだけで仙丈、甲斐駒(テン泊)、山伏(日帰り縦走)山伏(小屋泊)とだんだん本格的な山行をするようになって来ました。
そしてこの本格化が翌年の忘れられない思い出の山行へとつながって行くのです。