2009年06月30日
目的意識
昨日は朝一番で会社の後輩から「賢パパさん(とは言わず、本名で呼ばれましたが)今日の夜は何か用事がおありですか?」と訊ねられました・・・・・
月曜日から飲み会の予定など入れることはまぁありませんから「空いているけど何か・・・?」と答えました。
すると「横浜から〇ちゃんが出張で来るのですが賢パパのブログによく出て来るはなの舞に行ってみたいと言っているので一緒にいかがですか?」との事。
おぅ、あの若くて美人の〇ちゃんが・・・・静岡に来る・・・しかもはなの舞に行きたい・・・?
そんな結構な話を断る理由なんて何もありませんから勿論OKして早々と3時半には退社し、賢の散歩を済ませてからはなの舞に出向いて行きました。
で、皆さん6時前にはお揃いになり乾杯っ!


まぁいつもの事ですが大いに盛り上がり・・・・悲しい事に〇ちゃんは横浜に帰るため9時半頃にははなの舞を後にしました。
これでお開き・・・・と思っていたら若い人たちから「カラオケに行こう」との提案がありまして・・・・
いつもなら「男ばっかりでカラオケなんてつまんないから・・・」とご辞退申し上げるところなんですが・・・・・
若い人たちの言う事には「次回の飲み会に備えて歌の練習に行く」という大義名分が・・・・
これには賢パパも「なるほどそういう理由があるのなら・・・」という事で久しぶりで男だけのカラオケでした。
で、いつもはテキトーに誰かが選んだ曲を歌うばかりですが昨日は珍しく自分で選んで歌って来ましたねぇ。

男ばっかりにしては結構盛り上がって・・・・

なかなか良い感じでした。
目的意識を持って行けばたまには良いもんだね、男ばっかりのカラオケも・・・
月曜日から飲み会の予定など入れることはまぁありませんから「空いているけど何か・・・?」と答えました。
すると「横浜から〇ちゃんが出張で来るのですが賢パパのブログによく出て来るはなの舞に行ってみたいと言っているので一緒にいかがですか?」との事。
おぅ、あの若くて美人の〇ちゃんが・・・・静岡に来る・・・しかもはなの舞に行きたい・・・?
そんな結構な話を断る理由なんて何もありませんから勿論OKして早々と3時半には退社し、賢の散歩を済ませてからはなの舞に出向いて行きました。
で、皆さん6時前にはお揃いになり乾杯っ!
まぁいつもの事ですが大いに盛り上がり・・・・悲しい事に〇ちゃんは横浜に帰るため9時半頃にははなの舞を後にしました。
これでお開き・・・・と思っていたら若い人たちから「カラオケに行こう」との提案がありまして・・・・
いつもなら「男ばっかりでカラオケなんてつまんないから・・・」とご辞退申し上げるところなんですが・・・・・
若い人たちの言う事には「次回の飲み会に備えて歌の練習に行く」という大義名分が・・・・
これには賢パパも「なるほどそういう理由があるのなら・・・」という事で久しぶりで男だけのカラオケでした。
で、いつもはテキトーに誰かが選んだ曲を歌うばかりですが昨日は珍しく自分で選んで歌って来ましたねぇ。
男ばっかりにしては結構盛り上がって・・・・
なかなか良い感じでした。
目的意識を持って行けばたまには良いもんだね、男ばっかりのカラオケも・・・
2009年06月29日
富士山あれこれ(富士山の見えた山行)
前回の富士山あれこれでは黎明の富士山を取り上げましたがその時に調べたデータの中から一つ紹介させて頂きます。
賢パパは自分の山行記録を「ヤマレコ」という登山サイトのHPに記録していますがそれによれば今までの山行回数は全部で114回です。
先日の「黎明の富士山」を書く時はこれらの記録の中から画像を拾い出したわけですがその時についでだから富士山の見える山に登った回数と実際に何回見る事が出来たのかを調べてみました。
それによると114回の山行のうち、富士山に登った14回を除くとちょうど100回の記録があり、その中で富士山の見える山域への山行が87回ありました。
さて、問題です、87回の山行のうち実際に富士山を見る事が出来たのは何回あったでしょう?
正解は58回プラスαでした。
58回は完全に富士山の全体像が見えていたもので2回は半分くらいが雲で隠れていたもの、もう一回は見えていたはずだけれど写真が残っていないというものでした。
まぁ賢パパの山行は日帰りが基本でしかも天気が悪ければ即中止ですから条件の良い時に登っている事は確かなんですが・・・
富士山の見える山への山行で3回に2回は富士山を見た事になりますねぇ~。
賢パパのお気に入りの富士山の写真を紹介します。
まずこれが櫛形山からの富士山。

次が甲斐駒ヶ岳に登った時のものです。

そしてこれが七面山からの富士山。

やっぱりどこから見ても良いもんですねぇ~。
賢パパは自分の山行記録を「ヤマレコ」という登山サイトのHPに記録していますがそれによれば今までの山行回数は全部で114回です。
先日の「黎明の富士山」を書く時はこれらの記録の中から画像を拾い出したわけですがその時についでだから富士山の見える山に登った回数と実際に何回見る事が出来たのかを調べてみました。
それによると114回の山行のうち、富士山に登った14回を除くとちょうど100回の記録があり、その中で富士山の見える山域への山行が87回ありました。
さて、問題です、87回の山行のうち実際に富士山を見る事が出来たのは何回あったでしょう?
正解は58回プラスαでした。
58回は完全に富士山の全体像が見えていたもので2回は半分くらいが雲で隠れていたもの、もう一回は見えていたはずだけれど写真が残っていないというものでした。
まぁ賢パパの山行は日帰りが基本でしかも天気が悪ければ即中止ですから条件の良い時に登っている事は確かなんですが・・・
富士山の見える山への山行で3回に2回は富士山を見た事になりますねぇ~。
賢パパのお気に入りの富士山の写真を紹介します。
まずこれが櫛形山からの富士山。
次が甲斐駒ヶ岳に登った時のものです。
そしてこれが七面山からの富士山。
やっぱりどこから見ても良いもんですねぇ~。
2009年06月28日
山歩き&映画・・・充実した一日でしたが・・・・
昨日は好天の予報だったのでどこかに登ろうと考えていました。
金曜日にどこにしようかとあれこれ悩んでいると会社の健脚アスリートのたむちゃんが「明日はどこかに登りますか?」と訊いて来ました。
その時はまだはっきりとは決めていませんでしたが大体はここにしようと思っていた所があったので「穂積神社から真富士山を登ろうと思っている」と答えました。
すると彼は「面白そうなコースですね、僕もトレランで走ろうかなぁ」と言うので大体の時間を教えておいて昨日の朝食を済ませてからいつもの原付で出掛けて行きました。
賢パパの登山スタイルは原則として単独か同行者は身内だけと決めていますが彼の健脚ぶりは良く知っているのでOKです。
穂積神社に到着したのが6時15分頃でしたが彼は既に到着していて賢パパが着くのを待っていてくれました。
準備と言っても持ち物は水と着替えのTシャツと非常食のチョコレートぐらいのものですから準備なんてさっさと済ませて早速歩き始めました。
神社に着いた時は一組の親子連れがいましたが竜爪山への一般ルートを登って行ったようでした。
我々はひとまずトラバースルートを歩きます。
このルートは「静岡のK」さんのお薦めルートでたった一回歩いただけで賢パパはすっかり好きになりました。
縦走路の分岐までは前回竜爪山に登った時に一度歩いていますがそこから先は全くの初体験のルートです。

さすがに竜爪山とは違って家族連れのハイキングにはちょっときついコースなので入っている人はそれほど多くないと見えて踏み跡は所々でちょっと心細い感じがしました。
それでもアップダウンを繰り返して何とか目指す真富士山に到着です。

この後第二真富士山にも登ろうと思ってそちらの方へ行きかけたのですがピークを見るとずいぶん遠そうです。
午後からは賢ママと映画を観に行く約束をしていたため時間に遅れるわけには行かないのであきらめて引き返して来ました。
家に帰ってシュワ~を飲んでいると賢ママが午後から休んで帰って来たので今話題の映画を観に行って来ましたよ。
驚くなかれ賢パパ、映画館で観たのは実に29年ぶりの事でした。
更に驚いたのは出演者の中で顔を見ただけで誰だか分かったのが役所広司さんただ一人。
なかなか良い映画だったなぁと感動したのですが・・・・
帰りの車中で気になって仕方がなかったのが劇中で誰かが言ったあのセリフ。
「大事なのは、何をしたかではなく 何の為にそれをしたか...」
俺ってさんざん山登ってるけど・・・・一体何のために・・・・?
金曜日にどこにしようかとあれこれ悩んでいると会社の健脚アスリートのたむちゃんが「明日はどこかに登りますか?」と訊いて来ました。
その時はまだはっきりとは決めていませんでしたが大体はここにしようと思っていた所があったので「穂積神社から真富士山を登ろうと思っている」と答えました。
すると彼は「面白そうなコースですね、僕もトレランで走ろうかなぁ」と言うので大体の時間を教えておいて昨日の朝食を済ませてからいつもの原付で出掛けて行きました。
賢パパの登山スタイルは原則として単独か同行者は身内だけと決めていますが彼の健脚ぶりは良く知っているのでOKです。
穂積神社に到着したのが6時15分頃でしたが彼は既に到着していて賢パパが着くのを待っていてくれました。
準備と言っても持ち物は水と着替えのTシャツと非常食のチョコレートぐらいのものですから準備なんてさっさと済ませて早速歩き始めました。
神社に着いた時は一組の親子連れがいましたが竜爪山への一般ルートを登って行ったようでした。
我々はひとまずトラバースルートを歩きます。
このルートは「静岡のK」さんのお薦めルートでたった一回歩いただけで賢パパはすっかり好きになりました。
縦走路の分岐までは前回竜爪山に登った時に一度歩いていますがそこから先は全くの初体験のルートです。

さすがに竜爪山とは違って家族連れのハイキングにはちょっときついコースなので入っている人はそれほど多くないと見えて踏み跡は所々でちょっと心細い感じがしました。
それでもアップダウンを繰り返して何とか目指す真富士山に到着です。

この後第二真富士山にも登ろうと思ってそちらの方へ行きかけたのですがピークを見るとずいぶん遠そうです。
午後からは賢ママと映画を観に行く約束をしていたため時間に遅れるわけには行かないのであきらめて引き返して来ました。
家に帰ってシュワ~を飲んでいると賢ママが午後から休んで帰って来たので今話題の映画を観に行って来ましたよ。
驚くなかれ賢パパ、映画館で観たのは実に29年ぶりの事でした。
更に驚いたのは出演者の中で顔を見ただけで誰だか分かったのが役所広司さんただ一人。
なかなか良い映画だったなぁと感動したのですが・・・・
帰りの車中で気になって仕方がなかったのが劇中で誰かが言ったあのセリフ。
「大事なのは、何をしたかではなく 何の為にそれをしたか...」
俺ってさんざん山登ってるけど・・・・一体何のために・・・・?
2009年06月26日
山の想い出(鳳凰山縦走)
1982年の記録を見ると山行は全部で4回ですが8月初め、10月半ば12月中旬、年末と後半に集中し、しかも全てが山中で何泊かしていて今やっているような「日帰り登山」は一度もありませんでした。
当時はまだ独り者で時間にもお金にも余裕があったんでしょうねぇ~。
8月の赤石岳でプチ遭難騒ぎを起こしたので次の10月の八ヶ岳にはこっそりと内緒で行きましたがこの鳳凰山の頃にはもうほとぼりも冷めていましたから割とおおっぴらに出掛けましたね。
後輩の車で静岡を未明に出て甲府駅まで行きました。
甲府駅に着いた時間は記憶にありませんが駅の駐車場に車を停めてタクシーをチャーターして芦安まで行きました。
ゲートは閉められていましたがタクシーがゲートの中まで入れたのかそれともゲートの前で下りたのかも記憶にありません。
記録によると「夜叉神峠登山口発 8時40分」とありますから登山口までタクシーが行ってくれたのでしょうかねぇ?
時期的にそれほど多くはないにしても雪はあったと思いますし、雪の登山道を歩いた記憶があるのですが写真を見ると雪はあまり写っていません。





写真をよく見るとアイゼンを装着しているように見えますから凍結している所があったのかも知れません。
薬師小屋に泊まりましたが小屋番さんはいなくて他の宿泊者もなかったので我々の貸し切りでした。
帰りは御座石鉱泉に下ってゆっくり風呂につかり、穴山の駅から電車で甲府に戻りました。
車を置いた所に行くとタクシーの運転手さん達が集まっていて我々の車がタクシーの出入り口に停められていたため邪魔になったのでみんなで動かしたと話していました。
これはまずいと思って平謝りに謝って早々に退散して来ました。
今はほとんど日帰り登山で山行をしていますがあの当時の事を思い出すたびに泊まりでのんびり山を歩くのも良いものだなぁとつくづく思う今日この頃です。
当時はまだ独り者で時間にもお金にも余裕があったんでしょうねぇ~。
8月の赤石岳でプチ遭難騒ぎを起こしたので次の10月の八ヶ岳にはこっそりと内緒で行きましたがこの鳳凰山の頃にはもうほとぼりも冷めていましたから割とおおっぴらに出掛けましたね。
後輩の車で静岡を未明に出て甲府駅まで行きました。
甲府駅に着いた時間は記憶にありませんが駅の駐車場に車を停めてタクシーをチャーターして芦安まで行きました。
ゲートは閉められていましたがタクシーがゲートの中まで入れたのかそれともゲートの前で下りたのかも記憶にありません。
記録によると「夜叉神峠登山口発 8時40分」とありますから登山口までタクシーが行ってくれたのでしょうかねぇ?
時期的にそれほど多くはないにしても雪はあったと思いますし、雪の登山道を歩いた記憶があるのですが写真を見ると雪はあまり写っていません。
写真をよく見るとアイゼンを装着しているように見えますから凍結している所があったのかも知れません。
薬師小屋に泊まりましたが小屋番さんはいなくて他の宿泊者もなかったので我々の貸し切りでした。
帰りは御座石鉱泉に下ってゆっくり風呂につかり、穴山の駅から電車で甲府に戻りました。
車を置いた所に行くとタクシーの運転手さん達が集まっていて我々の車がタクシーの出入り口に停められていたため邪魔になったのでみんなで動かしたと話していました。
これはまずいと思って平謝りに謝って早々に退散して来ました。
今はほとんど日帰り登山で山行をしていますがあの当時の事を思い出すたびに泊まりでのんびり山を歩くのも良いものだなぁとつくづく思う今日この頃です。
2009年06月24日
プチオフ会in草薙
先月のいつ頃だったか、神戸在住の山友女史から「6月の21日から3連休が取れたので関東方面に遠征し、帰りに静岡にお邪魔したいのですが都合はいかがですか?」と言う内容のメールを受け取りました。
おおおぉ~、去年の暮れの丹沢オフ会以来半年ぶりの再会ですなぁ、都合が悪いなんて事は絶対にありませんからどうぞお出で下さいとすぐに返信したのは言うまでもありません。
そして一昨日の月曜日にその山友女史と自称「荒れ女」事○み○みさんが静岡にやって来ました。
たまたま今週の月曜日は賢パパの会社が休みだったのですが賢パパはどうしてもこの日のうちに終わらせなくてはいけない仕事があって午前中だけ出勤して仕事をして来ました。
それでも昼過ぎには家に戻って山友女史に連絡のメールを流しました。
するとすぐに返事が返って来て下山後に静岡に向かうので夕方には着けると思いますとの事。
最初は賢パパの家に来てもらおうかと考えていた賢パパとママですがあいにく賢ママは仕事で帰りが遅くなるとの事。
賢パパでは準備が出来ないので、それならいっそのこといつもの「はなの舞」にしましょうかと言う事になり、店長が出社する頃合いを見計らって予約の電話を入れておきます。
7時頃には到着出来ると言うので賢パパは6時半頃店に行き、お先に一杯始めていました。
一杯目の生ビールを飲み終えて次は焼酎にしようかなと思っている所に○み○みさんと○ーちゃんが到着して・・・取りあえず再会を祝して乾杯です。
ほどなく賢ママがやって来て又乾杯!
女性達を送って来てから車を置きに行っていたじいさんが合流すれば本日のフルメンバー。

飲んで食べて大いに盛り上がったプチオフ会でした。



丹沢忘年会は恒例化していますから当然今年もやるとして・・・その前にもう一回はどこかでオフ会やりましょうぜっ!皆さん。
おおおぉ~、去年の暮れの丹沢オフ会以来半年ぶりの再会ですなぁ、都合が悪いなんて事は絶対にありませんからどうぞお出で下さいとすぐに返信したのは言うまでもありません。
そして一昨日の月曜日にその山友女史と自称「荒れ女」事○み○みさんが静岡にやって来ました。
たまたま今週の月曜日は賢パパの会社が休みだったのですが賢パパはどうしてもこの日のうちに終わらせなくてはいけない仕事があって午前中だけ出勤して仕事をして来ました。
それでも昼過ぎには家に戻って山友女史に連絡のメールを流しました。
するとすぐに返事が返って来て下山後に静岡に向かうので夕方には着けると思いますとの事。
最初は賢パパの家に来てもらおうかと考えていた賢パパとママですがあいにく賢ママは仕事で帰りが遅くなるとの事。
賢パパでは準備が出来ないので、それならいっそのこといつもの「はなの舞」にしましょうかと言う事になり、店長が出社する頃合いを見計らって予約の電話を入れておきます。
7時頃には到着出来ると言うので賢パパは6時半頃店に行き、お先に一杯始めていました。
一杯目の生ビールを飲み終えて次は焼酎にしようかなと思っている所に○み○みさんと○ーちゃんが到着して・・・取りあえず再会を祝して乾杯です。
ほどなく賢ママがやって来て又乾杯!
女性達を送って来てから車を置きに行っていたじいさんが合流すれば本日のフルメンバー。
飲んで食べて大いに盛り上がったプチオフ会でした。
丹沢忘年会は恒例化していますから当然今年もやるとして・・・その前にもう一回はどこかでオフ会やりましょうぜっ!皆さん。
2009年06月22日
たまにはこんな昼食も・・・・
週末の金曜日の夕方、飲み会に出掛けようとしている所に玄関のチャイムが鳴りました。
出てみるとクロネコマークでおなじみの某宅急便屋さんのお兄さん。
荷物を受け取る前にはんこを押してからさぁ受け取ろうと手を出すと、「もう一枚お願いします」と・・・・別の受け取りを出されました。
当然の事ながら荷物が2個。
いやぁ~いっぺんに二個なんてこんな事は初めてだなぁなんて思いながら中を確かめようと・・・


これなら開けなくても中身がわかってしまいます。
フルーツ大好きの賢パパですが中でもとりわけ好きなモモとサクランボ。
使い古された表現で申し訳ありませんが「盆と正月が一度に来たみたい」っす。
で、早速いただいてみると・・・・当然の事ですが・・・うまいっ!
うちは賢ママも息子もモモを食べないので賢パパが独り占めする事になります。(賢は何でも食べるので少々分けて上げますがね)
モモは傷みが早いので美味しいうちに食べてしまおうって事で・・・
昨日の昼食はこんな感じで大変美味しくいただきました。

出てみるとクロネコマークでおなじみの某宅急便屋さんのお兄さん。
荷物を受け取る前にはんこを押してからさぁ受け取ろうと手を出すと、「もう一枚お願いします」と・・・・別の受け取りを出されました。
当然の事ながら荷物が2個。
いやぁ~いっぺんに二個なんてこんな事は初めてだなぁなんて思いながら中を確かめようと・・・
これなら開けなくても中身がわかってしまいます。
フルーツ大好きの賢パパですが中でもとりわけ好きなモモとサクランボ。
使い古された表現で申し訳ありませんが「盆と正月が一度に来たみたい」っす。
で、早速いただいてみると・・・・当然の事ですが・・・うまいっ!
うちは賢ママも息子もモモを食べないので賢パパが独り占めする事になります。(賢は何でも食べるので少々分けて上げますがね)
モモは傷みが早いので美味しいうちに食べてしまおうって事で・・・
昨日の昼食はこんな感じで大変美味しくいただきました。
2009年06月21日
山の想い出(こっそり出掛けた八ヶ岳)
1982年の10月に会社の後輩が八ヶ岳山行を計画していると言う話が伝わって来ました。
本来なら、一も二もなく参加したいと思った賢パパですがちょっと二の足を踏んでしまいました。
と言うのは、この年の8月に赤石岳であわや遭難という目に遭っていてそのほとぼりがまだ覚めていなかったからでした。
会社を3日も休んで周りの人達にはかなりの迷惑を掛けていたのでそれからまだ2ヶ月しか経っていないのではやはりいささか気が引けたのです。
でも・・・・山の誘惑には勝てず、その後輩と二人なら周りにも知られないだろうと思ってこっそりと出掛ける事にしたのです。
昔は体育の日が10月10日と決まっていましたからその前日の9日の朝に静岡を出て美濃戸口から行者小屋まで行き、翌日阿弥陀岳から赤岳、横岳、硫黄岳と縦走して夕方には静岡に帰って来る計画でした。
きちんとした記録が残っていないので記憶を頼りに書きますが行者小屋に泊まったのかテント泊だったのかがはっきりしません。
9日の夜に雪が降り翌日早朝の登りは雪を踏んで歩いた事を覚えています。



山歩きを終えて美濃戸口まで戻る時に登山道を歩いていると河原で地元の人がキノコ汁を作っていて「食べて行けよ」と声を掛けてくれてビールとキノコ汁を御馳走になったのですがそのキノコ汁がものすごく美味しかった事も忘れられない思い出です。
それと帰りの国道で追い越し禁止の所を走っていたら後ろから猛スピードで追い越して行った車があって後輩と二人で「あんな馬鹿野郎は捕まると良いんだけどなぁ」と話していたら長い直線道路の終わりの所にお巡りさんがいて見事に捕まえてくれた事。
こんな事ばかり覚えていて肝心の山の事はさっぱり記憶にないのです。
あぁ、そうそう、出掛ける前に先輩から「横岳の近くに一箇所危ない所があるから気をつけるように」と言われていたのでそればっかり気にして歩いたのですが結局最後までどこだかわからなかった事だけはよく覚えています。
この八ヶ岳山行を経験してますます山が好きになり、その後も誘われてではありますが色々な山に登る事になります。
本来なら、一も二もなく参加したいと思った賢パパですがちょっと二の足を踏んでしまいました。
と言うのは、この年の8月に赤石岳であわや遭難という目に遭っていてそのほとぼりがまだ覚めていなかったからでした。
会社を3日も休んで周りの人達にはかなりの迷惑を掛けていたのでそれからまだ2ヶ月しか経っていないのではやはりいささか気が引けたのです。
でも・・・・山の誘惑には勝てず、その後輩と二人なら周りにも知られないだろうと思ってこっそりと出掛ける事にしたのです。
昔は体育の日が10月10日と決まっていましたからその前日の9日の朝に静岡を出て美濃戸口から行者小屋まで行き、翌日阿弥陀岳から赤岳、横岳、硫黄岳と縦走して夕方には静岡に帰って来る計画でした。
きちんとした記録が残っていないので記憶を頼りに書きますが行者小屋に泊まったのかテント泊だったのかがはっきりしません。
9日の夜に雪が降り翌日早朝の登りは雪を踏んで歩いた事を覚えています。
山歩きを終えて美濃戸口まで戻る時に登山道を歩いていると河原で地元の人がキノコ汁を作っていて「食べて行けよ」と声を掛けてくれてビールとキノコ汁を御馳走になったのですがそのキノコ汁がものすごく美味しかった事も忘れられない思い出です。
それと帰りの国道で追い越し禁止の所を走っていたら後ろから猛スピードで追い越して行った車があって後輩と二人で「あんな馬鹿野郎は捕まると良いんだけどなぁ」と話していたら長い直線道路の終わりの所にお巡りさんがいて見事に捕まえてくれた事。
こんな事ばかり覚えていて肝心の山の事はさっぱり記憶にないのです。
あぁ、そうそう、出掛ける前に先輩から「横岳の近くに一箇所危ない所があるから気をつけるように」と言われていたのでそればっかり気にして歩いたのですが結局最後までどこだかわからなかった事だけはよく覚えています。
この八ヶ岳山行を経験してますます山が好きになり、その後も誘われてではありますが色々な山に登る事になります。
2009年06月20日
半日で2座、やる時ゃやるぞ、賢パパ「へたれ」の汚名返上!
最近原付を駆使して農道や林道のかなり高い所まで登ってしまう事を覚えてから正味時間5分とか10分の山行(とは言えませんね)ばかりで、神戸にお住まいの山友からは「この頃手抜きが多い」とやんわり喝を入れられている賢パパです。
で、その山友がこちらに遠征して来て、次の月曜日に山から下りてからこちらに向かうそうで・・・・・
と言う事は直接「喝」を入れられる事になるかも・・・・
そんな事になってはやばいと思った賢パパ、一念発起である計画を立てました。
それは、久しぶりの本格山行。
今日は天気も良さそうだという事で向かった先は「葵高原」でした。
先週、会社の後輩から情報をもらっていてどこに登るかは決めてないけど取りあえず原付を走らせて目的地に向かったのです。
住宅が少なくなってくるとこんな看板が迎えてくれます。

なかなか癒されます。
途中にある有東木集落はわさび栽培発祥の地だそうでこんな記念碑が・・・

今回も原付で林道のかなり高い所まで行ってしまったので車の人よりはずいぶん楽をしたと思いますが・・・・
地蔵峠から天津山(下十枚山)をピストンして南アの山々を堪能して来ました。


で、地蔵峠に戻ってみると「まだ10時前ぢゃん、しかも水は500mLのペットボトル半分も飲んでないっ!」
ぢゃぁ、もう1座やっつけちゃいましょうかと次に向かったのが青笹山。

まぁ、ほとんど空身ですからさくさくっと登って来まして・・・
ところが途中で足に異変が・・・左足の腿の筋肉が痙攣を起こしかけています。
こんな事もあろうかと去年の夏の富士山以来こんなものを必携です。

効果はすぐに現れて事なきを得て無事に出発点まで戻って来ました。
縦走の途中にある複数のピークを踏む事は珍しくありませんが一つのピークをピストンして来て更に別なピークをピストンで登るなんて・・・
山友の某工場長氏みたいな事をやっちゃいました。
これで「へたれ賢パパ」の汚名は返上さ、ねぇ~、ほーちゃんっ!
で、その山友がこちらに遠征して来て、次の月曜日に山から下りてからこちらに向かうそうで・・・・・
と言う事は直接「喝」を入れられる事になるかも・・・・
そんな事になってはやばいと思った賢パパ、一念発起である計画を立てました。
それは、久しぶりの本格山行。
今日は天気も良さそうだという事で向かった先は「葵高原」でした。
先週、会社の後輩から情報をもらっていてどこに登るかは決めてないけど取りあえず原付を走らせて目的地に向かったのです。
住宅が少なくなってくるとこんな看板が迎えてくれます。
なかなか癒されます。
途中にある有東木集落はわさび栽培発祥の地だそうでこんな記念碑が・・・
今回も原付で林道のかなり高い所まで行ってしまったので車の人よりはずいぶん楽をしたと思いますが・・・・
地蔵峠から天津山(下十枚山)をピストンして南アの山々を堪能して来ました。
で、地蔵峠に戻ってみると「まだ10時前ぢゃん、しかも水は500mLのペットボトル半分も飲んでないっ!」
ぢゃぁ、もう1座やっつけちゃいましょうかと次に向かったのが青笹山。
まぁ、ほとんど空身ですからさくさくっと登って来まして・・・
ところが途中で足に異変が・・・左足の腿の筋肉が痙攣を起こしかけています。
こんな事もあろうかと去年の夏の富士山以来こんなものを必携です。
効果はすぐに現れて事なきを得て無事に出発点まで戻って来ました。
縦走の途中にある複数のピークを踏む事は珍しくありませんが一つのピークをピストンして来て更に別なピークをピストンで登るなんて・・・
山友の某工場長氏みたいな事をやっちゃいました。
これで「へたれ賢パパ」の汚名は返上さ、ねぇ~、ほーちゃんっ!
2009年06月17日
現役引退を賭けて・・・・毎日が勝負ぢゃぁ~
賢パパの楽しみの一つに会社の昼休みのサッカーがある事は以前にブログでも紹介しました。
会社には狭いながらもグラウンドがあるので昼食後のひとときにサッカー好きが集まってミニゲームでボールを蹴り合うのです。
所が今年の2月に捻挫をしてしまい・・・ちょっと休んで再会したと思ったら同じ箇所を再び捻挫!

さすがに今度は相当長い間休みまして・・・・3ヶ月後に復帰しました。
この歳で長期のブランクは勘が戻るまでに相当時間がかかるようで・・・
復帰してからイメージ通りのパフォーマンスが出来なくて・・・ミスばかりが目立ちます。
まぁ、60歳代は二つ上の先輩と二人だけで40歳代が一人の他は全員が20、30歳代ですから仕方がないと言えば仕方がないのですが・・・
それでも賢パパ、周りに迷惑をかけるのは申し訳ないので今週からある決意を持ってゲームに臨んでおりますよ。
それは「1週間で1得点もアシストも出来なかったら現役を引退する」という重大な決意です。
幸いにも今週は昨日早くも1点をゲットしたので取りあえず来週は安泰です。
毎日やれば5ゲームですから1点ぐらいは何とかなるかなと思いますがこれから梅雨時で週に1回しか出来ないなんて事があるかも知れません。
そんな時は「規定打席数」ならぬ「規定ゲーム数」でも作って週に3回以上出来なかった週はノーカウントって事にしましょうかねぇ~。

写真のサッカーは静岡県の高校生のゲームで本文とは関係ありません。
会社には狭いながらもグラウンドがあるので昼食後のひとときにサッカー好きが集まってミニゲームでボールを蹴り合うのです。
所が今年の2月に捻挫をしてしまい・・・ちょっと休んで再会したと思ったら同じ箇所を再び捻挫!

さすがに今度は相当長い間休みまして・・・・3ヶ月後に復帰しました。
この歳で長期のブランクは勘が戻るまでに相当時間がかかるようで・・・
復帰してからイメージ通りのパフォーマンスが出来なくて・・・ミスばかりが目立ちます。
まぁ、60歳代は二つ上の先輩と二人だけで40歳代が一人の他は全員が20、30歳代ですから仕方がないと言えば仕方がないのですが・・・
それでも賢パパ、周りに迷惑をかけるのは申し訳ないので今週からある決意を持ってゲームに臨んでおりますよ。
それは「1週間で1得点もアシストも出来なかったら現役を引退する」という重大な決意です。
幸いにも今週は昨日早くも1点をゲットしたので取りあえず来週は安泰です。
毎日やれば5ゲームですから1点ぐらいは何とかなるかなと思いますがこれから梅雨時で週に1回しか出来ないなんて事があるかも知れません。
そんな時は「規定打席数」ならぬ「規定ゲーム数」でも作って週に3回以上出来なかった週はノーカウントって事にしましょうかねぇ~。

写真のサッカーは静岡県の高校生のゲームで本文とは関係ありません。
2009年06月15日
日帰り温泉紹介(なんぶの湯)
賢パパと賢ママの共通の趣味の一つに温泉がありますが元々賢パパは風呂が大嫌いで若い頃など数日も風呂に入らなかった事は珍しくありませんでした。
それがいつの頃からか大の温泉好きになって今では賢ママと二人で山の帰りに寄ったりあるいはわざわざ温泉だけのために片道2時間とか3時間とか掛けても入りに行くようになったのですから不思議なものですねぇ。
賢パパの風呂嫌いには実はわけがあって生まれ育った東北地方の実家の風呂場が母屋とは別に建てられていて(と言っても掘っ立て小屋ですが)風呂に入るためには一度外の空気に触れる必要があり、いつも入浴のたびにものすごく寒い思いをしていてそれが嫌でいつの間にか入浴そのものまで嫌いになってしまったのです。
そんな賢パパがどういうきっかけで温泉好きになったのかははっきり覚えていませんがとにかくいつの間にか好きになりました。
記録によると最初に日帰り温泉に行ったのは2000年11月とあります。
行った所はお隣の山梨県南部町にある「なんぶの湯」です。


それ以来ここの温泉には何度も行っていますが湯温がやや低めの良い温泉です。
最初に行った時には気がつきませんでしたが何度か通ううちに温泉名が「南部アルカディア温泉なんぶの湯」となっている事に気がつきました。
「アルカディア」って一体なに?
気になって調べてみましたがいまいちはっきりしません。
すると・・・・温泉に限らず南部町の公共施設の名前にはほとんど「アルカディア」の冠がついています。
例えば「アルカディア南部総合公園」「アルカディア南部文化館」「アルカディアスポーツセンター」等々・・・・
辞書で「アルカディア」を引いてみると・・・・「ギリシアにある土地の名前」とあります。
ギリシアと山梨では何のつながりもなさそうだし・・・
もっと良く読んでいると・・・・はっと気がつきました。
「ギリシア南部、ペロポネソス半島中央部の県」・・・ギリシア南部・・・南部・・・南部町・・・
果たして本当にそうなのかどうかは町の役場にでも問い合わせてみないとわかりませんが
賢パパはネーミングの由来についてはこれで納得する事にしました。
それがいつの頃からか大の温泉好きになって今では賢ママと二人で山の帰りに寄ったりあるいはわざわざ温泉だけのために片道2時間とか3時間とか掛けても入りに行くようになったのですから不思議なものですねぇ。
賢パパの風呂嫌いには実はわけがあって生まれ育った東北地方の実家の風呂場が母屋とは別に建てられていて(と言っても掘っ立て小屋ですが)風呂に入るためには一度外の空気に触れる必要があり、いつも入浴のたびにものすごく寒い思いをしていてそれが嫌でいつの間にか入浴そのものまで嫌いになってしまったのです。
そんな賢パパがどういうきっかけで温泉好きになったのかははっきり覚えていませんがとにかくいつの間にか好きになりました。
記録によると最初に日帰り温泉に行ったのは2000年11月とあります。
行った所はお隣の山梨県南部町にある「なんぶの湯」です。


それ以来ここの温泉には何度も行っていますが湯温がやや低めの良い温泉です。
最初に行った時には気がつきませんでしたが何度か通ううちに温泉名が「南部アルカディア温泉なんぶの湯」となっている事に気がつきました。
「アルカディア」って一体なに?
気になって調べてみましたがいまいちはっきりしません。
すると・・・・温泉に限らず南部町の公共施設の名前にはほとんど「アルカディア」の冠がついています。
例えば「アルカディア南部総合公園」「アルカディア南部文化館」「アルカディアスポーツセンター」等々・・・・
辞書で「アルカディア」を引いてみると・・・・「ギリシアにある土地の名前」とあります。
ギリシアと山梨では何のつながりもなさそうだし・・・
もっと良く読んでいると・・・・はっと気がつきました。
「ギリシア南部、ペロポネソス半島中央部の県」・・・ギリシア南部・・・南部・・・南部町・・・
果たして本当にそうなのかどうかは町の役場にでも問い合わせてみないとわかりませんが
賢パパはネーミングの由来についてはこれで納得する事にしました。
2009年06月14日
山・・・・・行けず
週末の天気予報を見ていると土曜日よりも日曜日の方が良さそうで・・・・・
土曜日は夕方から飲み会の予定が入っていて日曜日は賢ママが友人の結婚式に出席するため賢パパは単独行動が可能。
ぢゃぁ日曜日に軽く登りましょうと言う事で候補地を二つに絞り込んで準備しておりました。
ところが・・・・・昨日の飲み会、1次会は4時から7時半ぐらいまで・・・・


このまま帰るにはまだ早すぎるって事で2次会はお決まりのからおけ屋さんへ。



カラオケ屋を出た所で3次会に行く相談がまとまって・・・・

結局家に着いたのが11時過ぎ、4時から11時まで7時間飲みっぱなし・・・・
で、今朝の賢パパです。

賢の散歩に行って来たところまでは良かったのですが・・・久しぶりの二日酔い。
昼前までダウンしていました。
山には行けませんでしたが昨夜は楽しくやらせてもらったので良しとしましょう。
山は逃げないから・・・・来週こそは山・・・・行くぞ~!
土曜日は夕方から飲み会の予定が入っていて日曜日は賢ママが友人の結婚式に出席するため賢パパは単独行動が可能。
ぢゃぁ日曜日に軽く登りましょうと言う事で候補地を二つに絞り込んで準備しておりました。
ところが・・・・・昨日の飲み会、1次会は4時から7時半ぐらいまで・・・・
このまま帰るにはまだ早すぎるって事で2次会はお決まりのからおけ屋さんへ。
カラオケ屋を出た所で3次会に行く相談がまとまって・・・・
結局家に着いたのが11時過ぎ、4時から11時まで7時間飲みっぱなし・・・・
で、今朝の賢パパです。
賢の散歩に行って来たところまでは良かったのですが・・・久しぶりの二日酔い。
昼前までダウンしていました。
山には行けませんでしたが昨夜は楽しくやらせてもらったので良しとしましょう。
山は逃げないから・・・・来週こそは山・・・・行くぞ~!
2009年06月13日
山の想い出(赤石岳遭難騒ぎ)
前のブログでもほんの少々紹介しましたが赤石岳登山ではちょっとした遭難騒ぎを起こしています。
1979年という記録が残っていますから賢パパが静岡に転勤してから5年後の事になりますがこの頃から少しずつ静岡市の郊外にある山などに登るようになりまして1981年には仙丈、甲斐駒にも出掛けて行きました。
その翌年の1982年に会社の同僚で渓流釣りと山の好きなO氏から赤石岳登山と聖沢での渓流釣りの企画が提案され一も二もなく賛成して7月31日の早朝、O氏の車で畑薙ダムを目指して静岡市を出発したのでした。
おりしも前日に「梅雨明け宣言」が出されたばかりで素晴らしい夏晴れの朝でした。
畑薙ダムからは東海パルプのリムジンバスに乗ってさわら島まで行き、8時半頃からこの日の宿泊地である赤石岳目指して登り始めました。
昼過ぎに赤石小屋に着いて昼食を済ませて再び歩き出す時には聖岳にうっすらとガスがかかっていましたがその後の天候の急変を知るよしもありませんから1日目の目的地である赤石避難小屋に向けて歩みを速めました。
所が、登るに連れてガスが濃くなり、そのうちに遠くでは雷の音も聞こえ始めました。
ほうほうの体で夕方の16時過ぎに避難小屋に着きましたが疲れと激しい雨音にすっかり気持ちは萎えてしまい、大量に持って行った酒類も缶ビール1本を呑むのがやっとで天候の悪化を予想するラジオを聴きながら明朝一番での下山を決めて早々に寝袋に潜り込みました。
翌朝は6時に赤石避難小屋を後にして一気にさわら島まで下りましたが途中の赤石小屋での休憩を20分取った事が後になって悔やまれたのでした。
と言うのはさわら島到着が9時40分でそのわずか10分前に9時半の定期リムジンが出た後だった事を知らされたからです。
次のリムジンは11時半に出る事になっていましたが待てども暮らせどもやって来ませんでした。
仕方がないのでさわら島で停滞してリムジンが動き出すのを待つ事にしましたが外は大雨で何もする事がなくてひたすら酒を飲んでいました。
前日の疲労のため荷物を少なくしようとして持って行った酒類は全部避難小屋において来てしまったのが悔やまれてなりませんでしたがまさに「後の祭り」でした。
一晩泊まってリムジンを待ちましたが林道の状況を見て来た人の話を聞くと復旧にはかなりの時間がかかりそうでリムジンの運行は望めないとの事でした。
それでは自力で下山するしかないと判断し、8月2日の11時にさわら島を後にして自力での下山を開始しました。
大井川は濁流と化し、畑薙橋は流失し、林道は至る所で崩壊していて道なき道をひたすら歩いてさんざん苦労して夜の8時に畑薙ダムサイトに到着してテントでビバーク。




昼間はやんでいた雨ですが夜中に再び降り出して慌ててバス停のベンチに避難したものです。
翌日は雨の中を歩いて井川まで下り、駅の緊急避難センターに行って無事下山した事を伝えてから民宿に移動しました。
この時初めて人心地つきました。
その晩は民宿に一泊して翌日に鉄道が一部区間のバス振り替え輸送を行い復旧した事でやっと静岡に帰り着きました。

独身寮に帰り着いてテレビのニュースを見るとちょうど「災害救助法」の発令により自衛隊のヘリが出動してさわら島からの登山客を安倍川河川敷に作られた臨時ヘリポートに運んで来た画像が放映されていました。
あのニュースを見た時は「えぇ~っ、俺たちが苦労してやっとたどり着いたと思ったらヘリで飛んで来たやつがいるじゃんっ!」って、がっくり来ましたが今になって思えばヘリで簡単に帰って来るよりも貴重な体験が出来て良かったと負け惜しみでなくそう思います。
帰って来た翌日から1週間ぐらいの出張があり、その後はそのままお盆休みに入ったので次に出社した頃にはすっかりほとぼりが冷めていたのがせめてもの救いでした。
この時一緒に山行したO氏はその後、山から遠ざかりますが賢パパは10月に次の山行で八ヶ岳に登る事になります。
1979年という記録が残っていますから賢パパが静岡に転勤してから5年後の事になりますがこの頃から少しずつ静岡市の郊外にある山などに登るようになりまして1981年には仙丈、甲斐駒にも出掛けて行きました。
その翌年の1982年に会社の同僚で渓流釣りと山の好きなO氏から赤石岳登山と聖沢での渓流釣りの企画が提案され一も二もなく賛成して7月31日の早朝、O氏の車で畑薙ダムを目指して静岡市を出発したのでした。
おりしも前日に「梅雨明け宣言」が出されたばかりで素晴らしい夏晴れの朝でした。
畑薙ダムからは東海パルプのリムジンバスに乗ってさわら島まで行き、8時半頃からこの日の宿泊地である赤石岳目指して登り始めました。
昼過ぎに赤石小屋に着いて昼食を済ませて再び歩き出す時には聖岳にうっすらとガスがかかっていましたがその後の天候の急変を知るよしもありませんから1日目の目的地である赤石避難小屋に向けて歩みを速めました。
所が、登るに連れてガスが濃くなり、そのうちに遠くでは雷の音も聞こえ始めました。
ほうほうの体で夕方の16時過ぎに避難小屋に着きましたが疲れと激しい雨音にすっかり気持ちは萎えてしまい、大量に持って行った酒類も缶ビール1本を呑むのがやっとで天候の悪化を予想するラジオを聴きながら明朝一番での下山を決めて早々に寝袋に潜り込みました。
翌朝は6時に赤石避難小屋を後にして一気にさわら島まで下りましたが途中の赤石小屋での休憩を20分取った事が後になって悔やまれたのでした。
と言うのはさわら島到着が9時40分でそのわずか10分前に9時半の定期リムジンが出た後だった事を知らされたからです。
次のリムジンは11時半に出る事になっていましたが待てども暮らせどもやって来ませんでした。
仕方がないのでさわら島で停滞してリムジンが動き出すのを待つ事にしましたが外は大雨で何もする事がなくてひたすら酒を飲んでいました。
前日の疲労のため荷物を少なくしようとして持って行った酒類は全部避難小屋において来てしまったのが悔やまれてなりませんでしたがまさに「後の祭り」でした。
一晩泊まってリムジンを待ちましたが林道の状況を見て来た人の話を聞くと復旧にはかなりの時間がかかりそうでリムジンの運行は望めないとの事でした。
それでは自力で下山するしかないと判断し、8月2日の11時にさわら島を後にして自力での下山を開始しました。
大井川は濁流と化し、畑薙橋は流失し、林道は至る所で崩壊していて道なき道をひたすら歩いてさんざん苦労して夜の8時に畑薙ダムサイトに到着してテントでビバーク。
昼間はやんでいた雨ですが夜中に再び降り出して慌ててバス停のベンチに避難したものです。
翌日は雨の中を歩いて井川まで下り、駅の緊急避難センターに行って無事下山した事を伝えてから民宿に移動しました。
この時初めて人心地つきました。
その晩は民宿に一泊して翌日に鉄道が一部区間のバス振り替え輸送を行い復旧した事でやっと静岡に帰り着きました。
独身寮に帰り着いてテレビのニュースを見るとちょうど「災害救助法」の発令により自衛隊のヘリが出動してさわら島からの登山客を安倍川河川敷に作られた臨時ヘリポートに運んで来た画像が放映されていました。
あのニュースを見た時は「えぇ~っ、俺たちが苦労してやっとたどり着いたと思ったらヘリで飛んで来たやつがいるじゃんっ!」って、がっくり来ましたが今になって思えばヘリで簡単に帰って来るよりも貴重な体験が出来て良かったと負け惜しみでなくそう思います。
帰って来た翌日から1週間ぐらいの出張があり、その後はそのままお盆休みに入ったので次に出社した頃にはすっかりほとぼりが冷めていたのがせめてもの救いでした。
この時一緒に山行したO氏はその後、山から遠ざかりますが賢パパは10月に次の山行で八ヶ岳に登る事になります。
2009年06月05日
山の想い出(山伏)
1981年に会社の大先輩の「退職記念山行」で仙丈ヶ岳と甲斐駒ヶ岳に登る事となったのをきっかけに山の道具を一通り揃えた賢パパでしたがまだまだ自らが計画を立ててどこかの山に出掛けようという気にはなりませんでした。
それは経験不足と登山口までの足の確保の問題が大きかったのだと思います。
それでも賢パパが山の道具を揃えた事を知った先輩達が山に行く時は賢パパにも誘いの声を掛けてくれるようになりました。
退職記念山行から帰って一週間空けた次の週には安倍川源流部、いわゆる「安倍奧」の最高峰である「山伏」への山行に誘われました。
特に用事もなかったので一も二もなくOKの返事をして4人パーティで出掛けました。
記録が残っていないので記憶に頼るしかありませんが恐らくはバスを使って登山口の近くまで行き、そこから山伏に登り、後は稜線を辿って大谷嶺、八紘嶺を経て梅ヶ島温泉に下ったものと思われます。


当時はこの写真にもあるように「山伏」を「山伏岳」と呼んでいたように記憶していますが地元の人は昔から岳を省略して「やんぶし」と呼んでいたとかで最近登った時の山頂標はこんな風になっていました。

岳を付ける事に反発する人の仕業だと思われます。
記録を見ると山伏にはこの後2007年に賢ママと一緒に登るまで登った事がないとされていますが12月に「雪洞訓練」を行うために登った記憶がありますから記録がないだけで確かにこの年の12月にもう一度登っているはずです。
ここに記載した写真を見ると11月にしては雪が多いような気もするのでこの写真は雪洞訓練に行った時のものかも知れません。
その時は訓練をするには雪がなくて小屋泊まりを余儀なくされた事を憶えています。
下山した梅ヶ島温泉は「静岡の奥座敷」と呼ばれて市民から親しまれていますが当時の梅ヶ島公衆浴場は温泉の旅館街から安倍川を隔てた反対側の岸にあって丸太組みの小屋の中に湯船があるだけの素朴なものでした。
男湯と女湯の仕切りも丸太組みの壁でしたから丸太の隙間から覗けてしまうのでした。
そんな事を知ってか知らずか若い女性は入っていなかったように記憶していますねぇ。
閑話休題。
そんなわけでこの年は11月から12月にかけてだけで仙丈、甲斐駒(テン泊)、山伏(日帰り縦走)山伏(小屋泊)とだんだん本格的な山行をするようになって来ました。
そしてこの本格化が翌年の忘れられない思い出の山行へとつながって行くのです。
それは経験不足と登山口までの足の確保の問題が大きかったのだと思います。
それでも賢パパが山の道具を揃えた事を知った先輩達が山に行く時は賢パパにも誘いの声を掛けてくれるようになりました。
退職記念山行から帰って一週間空けた次の週には安倍川源流部、いわゆる「安倍奧」の最高峰である「山伏」への山行に誘われました。
特に用事もなかったので一も二もなくOKの返事をして4人パーティで出掛けました。
記録が残っていないので記憶に頼るしかありませんが恐らくはバスを使って登山口の近くまで行き、そこから山伏に登り、後は稜線を辿って大谷嶺、八紘嶺を経て梅ヶ島温泉に下ったものと思われます。


当時はこの写真にもあるように「山伏」を「山伏岳」と呼んでいたように記憶していますが地元の人は昔から岳を省略して「やんぶし」と呼んでいたとかで最近登った時の山頂標はこんな風になっていました。

岳を付ける事に反発する人の仕業だと思われます。
記録を見ると山伏にはこの後2007年に賢ママと一緒に登るまで登った事がないとされていますが12月に「雪洞訓練」を行うために登った記憶がありますから記録がないだけで確かにこの年の12月にもう一度登っているはずです。
ここに記載した写真を見ると11月にしては雪が多いような気もするのでこの写真は雪洞訓練に行った時のものかも知れません。
その時は訓練をするには雪がなくて小屋泊まりを余儀なくされた事を憶えています。
下山した梅ヶ島温泉は「静岡の奥座敷」と呼ばれて市民から親しまれていますが当時の梅ヶ島公衆浴場は温泉の旅館街から安倍川を隔てた反対側の岸にあって丸太組みの小屋の中に湯船があるだけの素朴なものでした。
男湯と女湯の仕切りも丸太組みの壁でしたから丸太の隙間から覗けてしまうのでした。
そんな事を知ってか知らずか若い女性は入っていなかったように記憶していますねぇ。
閑話休題。
そんなわけでこの年は11月から12月にかけてだけで仙丈、甲斐駒(テン泊)、山伏(日帰り縦走)山伏(小屋泊)とだんだん本格的な山行をするようになって来ました。
そしてこの本格化が翌年の忘れられない思い出の山行へとつながって行くのです。
2009年06月01日
山の想い出(仙丈ヶ岳と甲斐駒ヶ岳)
賢パパの登山履歴は1969年に大学2年生の時、友達に連れて行ってもらった朝日連峰縦走に始まりましたがまだまだこの頃は自分から進んで山行を計画する事はなく次の山行も友達に連れて行ってもらったもので前回の朝日連峰からは2年も後の事でした。
その後就職して2年間を横浜で暮らしましたが知り合いで山登りをする人もなく賢パパも山とは無縁の毎日を過ごしていました。
それが1974年に静岡に転勤となり会社の独身寮で暮らしている所に後輩が入って来たりして何となく山の話をしたりしているうちに近場の山に興味を持つようになったのです。
それでも次に山に行ったのは1979年の事ですから前回の蔵王山から実に8年も後の事でした。
この年は後輩と二人で3回ほど静岡市近郊の山を歩きましたがその翌年はたったの1回しか登りませんでした。
今になって考えてみてもどういう理由だったのかははっきりしませんが当時は車を持っていなかったためバスや電車を利用するしかなくてそれが面倒で積極的に山登りをしなかったのだと思います。
それが、1981年の11月に会社を定年退職される方の記念山行が計画され、その山行に誘われたのをきっかけに山の道具を揃える気になりわざわざ東京まで出掛けて行き、大学のワンゲル部出身の友達に見立ててもらってテント以外の山道具一式を揃えたのでした。
「T氏退職記念山行」と名付けられた仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳登山は1981年の11月3日、4日の一泊二日の日程で行われました。
一日目に自家用車に乗り合いで広河原に入り、そこからバスで北沢峠まで上がり仙丈ヶ岳に登って来てから北沢峠でテント泊、翌日は仙水峠から甲斐駒ヶ岳に登ると言う計画でした。
初日の仙丈ヶ岳は良い天気に恵まれて頂上からの景色を堪能しました。

下山時にアイスバーンのトラバースがあって誰もアイゼンを持っていなかったので先輩がピッケルを使いステップを切ってくれましたが初めての体験でとても恐かった事を思い出します。
夜はテント場ですき焼きの大宴会をやって当時の山ではお決まりの歌など歌って楽しく過ごしました。


所が翌日は前日とはうって変わって悪天候で仙水峠に着く頃には雪になり冬の装備を持っていなかったため摩利支天を眺めただけで撤退して来ました。


この時の摩利支天の美しさをそれ以来忘れた事が無く、機会があれば絶対に甲斐駒に登ろうと心に誓った賢パパですが、その念願が叶うのはそれから23年後の2004年の事になります。
その後就職して2年間を横浜で暮らしましたが知り合いで山登りをする人もなく賢パパも山とは無縁の毎日を過ごしていました。
それが1974年に静岡に転勤となり会社の独身寮で暮らしている所に後輩が入って来たりして何となく山の話をしたりしているうちに近場の山に興味を持つようになったのです。
それでも次に山に行ったのは1979年の事ですから前回の蔵王山から実に8年も後の事でした。
この年は後輩と二人で3回ほど静岡市近郊の山を歩きましたがその翌年はたったの1回しか登りませんでした。
今になって考えてみてもどういう理由だったのかははっきりしませんが当時は車を持っていなかったためバスや電車を利用するしかなくてそれが面倒で積極的に山登りをしなかったのだと思います。
それが、1981年の11月に会社を定年退職される方の記念山行が計画され、その山行に誘われたのをきっかけに山の道具を揃える気になりわざわざ東京まで出掛けて行き、大学のワンゲル部出身の友達に見立ててもらってテント以外の山道具一式を揃えたのでした。
「T氏退職記念山行」と名付けられた仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳登山は1981年の11月3日、4日の一泊二日の日程で行われました。
一日目に自家用車に乗り合いで広河原に入り、そこからバスで北沢峠まで上がり仙丈ヶ岳に登って来てから北沢峠でテント泊、翌日は仙水峠から甲斐駒ヶ岳に登ると言う計画でした。
初日の仙丈ヶ岳は良い天気に恵まれて頂上からの景色を堪能しました。

下山時にアイスバーンのトラバースがあって誰もアイゼンを持っていなかったので先輩がピッケルを使いステップを切ってくれましたが初めての体験でとても恐かった事を思い出します。
夜はテント場ですき焼きの大宴会をやって当時の山ではお決まりの歌など歌って楽しく過ごしました。


所が翌日は前日とはうって変わって悪天候で仙水峠に着く頃には雪になり冬の装備を持っていなかったため摩利支天を眺めただけで撤退して来ました。


この時の摩利支天の美しさをそれ以来忘れた事が無く、機会があれば絶対に甲斐駒に登ろうと心に誓った賢パパですが、その念願が叶うのはそれから23年後の2004年の事になります。